母について② ―青春と上京
地元じゃ負け知らず…な青春
母は谷あいの保守的な田舎で育った(本人曰く自分はシティーガール、だが)。四人姉妹の2番目で、小中高と、入学するたび教師から「〇〇の妹か」と言われた。
制服類はいつもお下がりだったが、それは美人でよくモテたらしい。それは若い頃の写真を見ても分かる。当時あまりいないようなスラッとした西洋体型をしており、顔も整っている。笑顔がチャーミング。
高校時代はハンドボール部に入っていたが、スポーツ万能だったため大会のたびに陸上部の助っ人として出場していたらしい。そして、その練習で学年イチの美男子と二人きりで課外を過ごしたけど、お互い一言も話さず無言で練習に励んでいたというのが、母の鉄板の青春ストーリーだ(結局何も起こらない甘酸っぱさがいいのだろう)。
オマケに勉強も好きで、アホほど真面目に勉強したので成績もむちゃくちゃ良かった。私とは全く縁のないリア充生活だ。
ただこのリア充、ハンドボールで強くなりたい一心で、通学カバンに鉄板を入れつま先立ちで通学していたという。
体育会系を変にこじらせた真面目系リア充だった。
父への反発、進学、上京
勉強が好きだった母は大学に進学したかった。特にロシア文学に傾倒していたため、ロシア語を学びたかったらしい。
しかし、当時の田舎らしい保守的な価値観の父親(私の祖父)とぶつかり、
祖父「女が大学なんて行ってどうする!」
母「お父さんは学がない!」
と言い争ったと言う。この時父にぶつけたこの言葉を、母は未だに後悔している。昭和のガンコ親父を絵に描いたような性格の祖父に、正面切ってぶつかるのは姉妹の中で母だけだった。妹からも「勉強が好きなんて」と変人扱いされた。
このような親の反対を押し切って、母は姉妹でたった一人だけ大学に進学した。
すでに大阪で就職していた姉を追い、京都府八幡市に出て姉妹で同居生活を始める。そうして通った京都の同志社大学で、母は父に出会った。
英語倶楽部と出会い
本当はロシア語を学びたかった母だが、外語大には行けなかったのか?学内に当該科がなかったため、仕方なく英米文学科を選択する。この時の選択は彼女のその後のキャリアを決めた。
大学生になった母は、専攻の能力をより高めようとESS(English Study Society)というクラブに所属する。街で外国人を見かけること自体珍しかった当時、世間一般から見れば、はみ出たGeekな集団だったんじゃないだろうか(想像)。例えば、パソコンのない時代、学校のテレタイプ端末で夢中になってプログラムを打っていたビル・ゲイツみたいな(言い過ぎ?)。
そこで、熊本から出てきて、経済学部生なのになぜかESSに入っていた一年先輩の父と出会った。
内気な文学青年でどこか浮世離れした父と、体育会系ガリ勉美人の母がどういう風に仲を深めていったかは、知らない。
ここだけは、あまり触れないでおきたい気もする。
ただ母は、当時から父を「変わった人だ」「世の中うまく生きていけるのかな」とは思っていたらしい。
ちなみに母は身長170cm近く、当時の写真を見ると(白黒写真の情報量とはいえ)、ストレートの黒髪にボヘミアンスタイルやエスニックファッションがよく似合っていて、ファッション誌の街中スナップ的なものにも載ったことがあるらしい。世が世なら読モである。
才色兼備な読モと内気な文学青年が恋に落ちるって、結構少女漫画らしいドラマチックな設定だと思うんだけど…
さて、この学生時代が、母にとってはある種もっとも自由で満たされた時代だったのではないかと思う。
このあと就職して間もなく父母が亡くなり、その後は私や弟の育児と仕事で怒涛の如く日々が過ぎていったのだから。
母について① 両親の死
こんなこと書くと不謹慎だけど、母は毎日元気な不摂生高齢者(前期)なので、人生百年時代といえどいつ死ぬかわからないと思う。
だから私なりに、母について色々なこと今のうちに書き留めておきたい。
書く中で、そういえばあの思い出話の続きを聞いてない、とか出てくるんじゃないか。そうやって会話しておけば、別れのその時の後悔が少なくなるんじゃないかと思って。
噛み合わない、性格が合わないと思い続けていた母だけど、結婚してはじめて「伴侶を持つもの」という共通属性をゲットし、出産してさらに「人の親」という強力な共通属性をゲットした今、彼女を人生で一番身近に、愛しく感じている。
母の思い出話
両親(私の祖父母)の死について
「うちの両親は56で死んだ、私もそれまでには死ぬと思う」と母はときどき言っていて、私は子供心に親の早世に恐怖したものだった。(56歳を迎えた時、母は自分でも驚いていた。それからもう10年経つ。)
祖父は癌で亡くなった。
祖母はその翌年、祖父の後を追って自死したらしい。
このことは、たった一度だけ、泥酔した母がうっかり溢して知った。祖母の自死について母が話したのは、あとにも先にもその一度だけだった。泥酔の翌朝、母はいつものように前晩の記憶はすっかりなくしていた。だから、この話を私が知っていることは、私だけの秘密なのだ。
母は本当は、墓場まで持っていくつもりだったんだろう。
祖父の死に目に会えなかったこと、そのことへの後悔は何度か聞かされていた。故郷を離れた上アチコチ飛び回る仕事(当時国内/海外でツアーガイドをしていた)をしていた自分を、当時深く責めたようだ。
それで、父と母の遅れた新婚旅行は、祖父母供養のための西国三十三箇所巡りになった(たしか)。家には確かに観音様が描かれた、御朱印コンプ済の掛け軸がある。
この新婚旅行で撮影した写真を見せてもらったこともあるが、草原に座り父のカメラに微笑む若き日の母を見て、(これ、でも、親の死に向き合う旅の最中だったんだよなぁ…)と、ただ爽やかな思い出写真とは受け取れない複雑な気持ちになった記憶がある。
祖母の死は、自宅で起こったらしい。首吊りだったと思う。
当時両親と同居していた、3番目の叔母さんが見つけたそうだ。今でも4人姉妹の中で一番ひょうきんな彼女だけど、当時の辛さはいかばかりだったか、と母は言っていた。
両親の死後 ―母が親戚を信じない理由
両親の死後間もなく、どこからともなく遠近の親戚縁者が集まってきて、残された若い姉妹(末の妹はまだ高校生だった)をよそに勝手に遺産分配を始めた。母たち姉妹は帰るべき家まで獲られ、母の手元に残ったのは数点の遺品(祖母の着物数着と、祖母のブローチ)のみだった。
確かに、私たち母方のイトコは、母の実家で集まった記憶がない。正月も、父方の実家に時々行く程度(父方も九州なので頻繁には帰れない)。
数少ない法事の集まりの際にも、母の実家ではなく祖母の実家を借りて集まっていた。
このことは、 若い母の記憶に強烈な恨みの感情をもたらしていた 。そのせいで「親戚」「親戚付き合い」に嫌悪感を抱いているらしいことは、私も認識していた。
ただしその頃親切に味方してくれた数少ない親戚は、今でも大事に思っている様子。名前を聞いておかなきゃ。
まだ若かった母のこと、 遺産分配や所有権の詳細もきっと分からなかっただろうし、親戚方にも何かと事情はあったかもしれない、と想像はできる。
ただ、若くして帰る家を失い、頼れる親戚もない中で助け合って生きてきた4姉妹の孤独感、世間への不信感は尊重したいと思う。
今週の『エール』で父が語ったこと
リモートワークという名の休業状態に入った父が、いつものように昼食を持ってやってきてくれた。
私が最近ハマっている朝ドラ『エール』の録画を再生しながらくつろいでいたところ、裕一が川俣でチンドン屋に遭遇するシーンで、父が突然「これは天然の美だね」と言った。
ん?子供の表情が自然でいいなってこと?と思ったら、そういう曲が流行っていたのだと。
中学生時代に吹奏楽部でクラリネットをやっていた父は、同級生からこの「天然の美」を演奏しろ、とよくせがまれたらしい。 この曲はなぜかチンドン屋でよく演奏されていたので、 知名度が高かったとのこと。チンドン屋さんの定番曲なんですね。
また、主人公・裕一が吃音であること、朝ドラに続く情報番組・あさイチ!で吃音特集をやっていたことを話すと、また思い出話が聞けた。
父には、40代で自殺してしまった佐藤君(仮)という同級生がいたのだが(そのことは以前から聞いていた)、彼が吃音だったらしい。父曰く、家は下宿屋、7人兄弟の末っ子で、家族は彼よりも下宿人の世話に忙しかった。 強者に囲まれ、生まれた瞬間から生存競争に敗北していたと言うか、そういった環境が大きかったのではないかと父は言っていた。勿論父の私見である。
娘が産まれたことで両親と再接近し、かつては聞き流していた思い出話が、また違った新鮮さを持って響いてくるこの毎日を愛しく、かけがえなく思う。
前期高齢者になり敬老パスを持った両親。
肌が弱くなり乾癬を繰り返すようになったり、体力が落ちてきたり…聞こえが少し悪くなってきたり。 娘のおかげで、別居していても頻繁に顔を合わせるので、彼らの老いにはいやが応でも気がつく。
このように親の思い出話を書き留めたいと思うようになったのは、そのせいもあるかもしれない。
つれづれ
私の不誠実が原因で疎遠になった友達がいる。もともと、すごく気が合うというわけでもなかったけれど、二人で海外旅行行ったり、仲良くしてもらっていた。
私は私の不誠実が恥ずかしくて、その日以来連絡を取れずにいる。
今日、本屋で「キャバリア」の特集雑誌を見かけた。キャバリアは犬の種類だ。あの子は九州の実家でキャバリアを飼っていた。とても可愛がって、携帯の待受にしたりしていた。最後に訊いた時、もう年だけど、いくつになってもかわいい と言っていた。
それから10年近く経った。
あの子の犬は何という名前だったっけ。
もう生きてはいないだろう。
あの子は愛犬の死をどんな風に悲しんで、どう乗り越えたんだろう。
ボンヤリと考えて、当然だけど、寂しくなった。
親友以外の友達って、いてもいなくても生活に支障はない。心の支障もあまりない。
でも、その人の悲しみや立ち直りに寄り添えないってのは、単純に、さみしいことだ。
せっかく知り合ったのに。あんなことがなければ、今でも少しは繋がっていて、喜びにはお祝いを、悲しみには慰めを、表面的だったとしても伝えられたかもしれないのに。
今更きっかけもなしにまた話しかけることなんてできない、と思う私は未だ不誠実なまま母になっている
くら寿司のシャリコーラを超簡単に再現する
どうも、ものぐさDIY妊婦のたびきゃりです。
というか妊婦ではなくなりました。ものカーチャンになりました!
飛ばしてもいい導入部
低時給の非正規雇用者で店舗を回す業態のせいでバカッター騒動が巻き起こり、飲食チェーン各社が炎上&類焼を繰り返してますね…
私は各種100円寿司チェーンの中でもくら寿司が1番のお気に入りだったんですが、さすがに一部のアルバイトがやったこととは言え、しばらくは利用する気が失せるというか。
ぷち寿司とかビッくらポンとか、テーブル席の個室感とか、女子供ウケするアイディアが沢山で好きだっただけに残念です。
中でも特にくら寿司を選んでいた理由が、サイドメニューの「シャリコーラ」!
飲んだことない人いますか?
シャリコーラ飲まずに逆に何飲んでるんですか?(煽り)
米のまろやかな甘みと引き締まる炭酸のマリアージュ。
シャリの国に生まれた幸せを口腔でそして喉で存分に味わえる、寿司を食べずにシャリコーラだけ飲みに行ってもよいほどの逸品ですよ。
さて 作り方
シャリコーラはしばらくお預け…そんな悲しみに暮れていた私に(つまらない人生ですね)、夫がこんなレシピを提案してくれました。
- 甘酒 …コップに半分
- 炭酸水 …コップに半分
- 混ぜる
あっ、えっ……
それだけ………
それだけでした。見事にシャリコーラの味!
あっけなさ過ぎてポカンとしました。
本格派とかアレンジとか
ちなみに、私はものぐさなので甘酒と炭酸水のみでやってますが、サイダーやお酢を使ってよりしっかりした甘みとシャリ感を出すレシピもありました。
私の飲んだ限りでは、1:1 の割合であれば無添加の甘酒の甘みだけで、割合満足のいく味になります。
ただし、甘酒の質感がモッタリしているせいか、混ぜる過程でけっこう炭酸が抜けます。微発泡な感じになります。
是非お試しあれ。
ガーターフリーストッキングへの謝罪
こんにちは、妊婦たびきゃりです。
そう、しばらく いや長らく更新しないうちに、臨月妊婦になっていました。
いや〜〜〜産休迎えるまでって結構キツイですね…!ツワリもあれば各種申請やら挨拶回りやら引き継ぎやら、親しくもない善意の他人からの気遣いの押し売りやら(毒づき)
善意の他人からアレコレふっかけられては調査した「妊娠トンデモ言説の真実」について語りたい気持ちもあるのですが、まずはこのブログで最も需要を感じるガーターストッキングについての話題で、場を温めたいと思います。
久々の更新ですのでね…
まずはこの言葉から入らねばなりますまい。
ごめんなさい。
………いや〜もう………
何がって、前の記事でガーターフリーストッキングについて、ゴムのストッパーがキツくて跡になるとか、痒くなるとか色々書いたんですが、奴さんもいろいろ改善されていたようで…
お腹が出てガーターベルトが付けられなくなった頃、結婚式の列席でどうしてもストッキングを履く必要が出て、しぶしぶやっすいガーターフリーストッキングを履いて臨んだんですよね。そうしましたら、アラ不思議。
7時間履き続けても食い込まない、かゆくない、ズレにくい。
30分以上歩いたりするとズレはやっぱりありましたが、2〜3時間おきにトイレに行く(=そのたび引き上げる)とすれば、許容範囲かも。
私が買ったのはこちらの安物(失礼)です。
華やかな結婚式の場に…とちょっとパーリーなタイプ。はき口のレースがね、ピーコック(孔雀)柄とあるんですが、なかなかゴージャスでよかったです。
ボヤき:点数をつけるという行為
『ラストベガス』と言う映画を見た。 Amazonプライムでタダだったし、ロバートデニーロも、モーガン・フリーマンも好きだったから。
パッケージ画像で分かるとおりの、笑いあり涙あり、ちょっとゴージャスでおバカな、通りいっぺんのライトな人間賛歌だった。
映画が嫌いじゃなくて、それなりにいくつか見ている人なら、そういう内容は大体導入部分で想像がつく。 それを分かって見る、安定感を求めて見る。
ところが、映画を流しながら「マドンナ役のこの妙齢女性は誰だったっけ」と検索をかけてたら、この映画にそれこそ通りいっぺんの文句をつけて楽しんでいる輩を見つけてゲンナリした。
しかも、自分の見た映画に20点台だの30点台だの、80点台だのと点数をつけて、何様なんだか知らないが偉そげに紹介している。『ラストベガス』はランク外、「ただ文句をつけたくなる映画」らしい。
炎上商法なのか、ただのマウンティング野郎なのか分からないが(ブログ読者からの批評リクエストにもいちいち上から目線の注意書きを施しているところを見ると、天性のマンスプレイニング能力者なんだろうと思う)、こちらからもすごくありきたりな感想を言わせてもらうと「点数をつける」という行為自体がおこがましくて、恥ずかしくて見てらんないって感じ。
その映画が実際に浅薄で商業主義的で、自称「肥えた目」にはいっそ露悪的にすら映ったとしても、「点数」などというなんの温かみも工夫もないツールでそれを料理してしまった時点で、批評者のKO負けなんだよ。
なぜか。
点数をつけるということは、その絶対的な判定を下すだけの知識や経験や能力が自分にはある、と宣言してるのと同じだから。そして、教授気取りでえらそうに点数をつけてる批評者が、その能力を伴っていることは、ほとんどない。
教授気取るんだったら、せめて映画史上の立ち位置だとか、政治的背景だとか、哲学的考察だとかを入れてみろよ、と言いたい。
素人が中途半端ないちゃもんでもって専門家気取りで点数をつけているのが見ていて一番恥ずかしいから、そういった輩にはせめて言論の自由にまかせてくだらねぇレビューを公開する程度で止めといて頂きたい。点数はやめろ。
と、なんとなく思いつつ、映画そのものは素直に楽しんだひとりぼっちの週末だった。