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母について① 両親の死

こんなこと書くと不謹慎だけど、母は毎日元気な不摂生高齢者(前期)なので、人生百年時代といえどいつ死ぬかわからないと思う。

だから私なりに、母について色々なこと今のうちに書き留めておきたい。


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書く中で、そういえばあの思い出話の続きを聞いてない、とか出てくるんじゃないか。そうやって会話しておけば、別れのその時の後悔が少なくなるんじゃないかと思って。

噛み合わない、性格が合わないと思い続けていた母だけど、結婚してはじめて「伴侶を持つもの」という共通属性をゲットし、出産してさらに「人の親」という強力な共通属性をゲットした今、彼女を人生で一番身近に、愛しく感じている。

 

 

母の思い出話

両親(私の祖父母)の死について 

「うちの両親は56で死んだ、私もそれまでには死ぬと思う」と母はときどき言っていて、私は子供心に親の早世に恐怖したものだった。(56歳を迎えた時、母は自分でも驚いていた。それからもう10年経つ。)

 

祖父は癌で亡くなった。

祖母はその翌年、祖父の後を追って自死したらしい。

 

このことは、たった一度だけ、泥酔した母がうっかり溢して知った。祖母の自死について母が話したのは、あとにも先にもその一度だけだった。泥酔の翌朝、母はいつものように前晩の記憶はすっかりなくしていた。だから、この話を私が知っていることは、私だけの秘密なのだ。

母は本当は、墓場まで持っていくつもりだったんだろう。

 

祖父の死に目に会えなかったこと、そのことへの後悔は何度か聞かされていた。故郷を離れた上アチコチ飛び回る仕事(当時国内/海外でツアーガイドをしていた)をしていた自分を、当時深く責めたようだ。

それで、父と母の遅れた新婚旅行は、祖父母供養のための西国三十三箇所巡りになった(たしか)。家には確かに観音様が描かれた、御朱印コンプ済の掛け軸がある。

この新婚旅行で撮影した写真を見せてもらったこともあるが、草原に座り父のカメラに微笑む若き日の母を見て、(これ、でも、親の死に向き合う旅の最中だったんだよなぁ…)と、ただ爽やかな思い出写真とは受け取れない複雑な気持ちになった記憶がある。

 

祖母の死は、自宅で起こったらしい。首吊りだったと思う。

当時両親と同居していた、3番目の叔母さんが見つけたそうだ。今でも4人姉妹の中で一番ひょうきんな彼女だけど、当時の辛さはいかばかりだったか、と母は言っていた。

 

両親の死後 ―母が親戚を信じない理由

両親の死後間もなく、どこからともなく遠近の親戚縁者が集まってきて、残された若い姉妹(末の妹はまだ高校生だった)をよそに勝手に遺産分配を始めた。母たち姉妹は帰るべき家まで獲られ、母の手元に残ったのは数点の遺品(祖母の着物数着と、祖母のブローチ)のみだった。

確かに、私たち母方のイトコは、母の実家で集まった記憶がない。正月も、父方の実家に時々行く程度(父方も九州なので頻繁には帰れない)。

数少ない法事の集まりの際にも、母の実家ではなく祖母の実家を借りて集まっていた。

 

このことは、 若い母の記憶に強烈な恨みの感情をもたらしていた 。そのせいで「親戚」「親戚付き合い」に嫌悪感を抱いているらしいことは、私も認識していた。

ただしその頃親切に味方してくれた数少ない親戚は、今でも大事に思っている様子。名前を聞いておかなきゃ

 

まだ若かった母のこと、 遺産分配や所有権の詳細もきっと分からなかっただろうし、親戚方にも何かと事情はあったかもしれない、と想像はできる。

ただ、若くして帰る家を失い、頼れる親戚もない中で助け合って生きてきた4姉妹の孤独感、世間への不信感は尊重したいと思う。